2009年06月25日

双子の赤字と言われる

元々、双子の赤字と言われる財政赤字と経常収支赤字を抱える米国経済にとって、それまでの米ドルの高騰は砂上の楼閣のような存在であり、戦費の出費は米国連邦政府の財政を蝕んでいた。米ドルの下落が進んだことで、米ドル決済で行う原油取引において原油売却代金の実質収入が減少に転じ、その対策からOPEC非加盟国であるロシアや中南米諸国は原油の量的規制を強化して価格の一段の上昇を図った。これにより新興経済発展諸国の経済成長による実需の増加や折からの商品市況への投機熱も相まって原油価格は暴騰した。産油国では余剰利益の資金滞留が起こり、資金の循環が進まず、また、各国の金融引き締めから景気の鈍化が起こり、世界経済の停滞が始まった。米国でも2004年11月から金利が上昇に転じたことからサブプライムローンの借り手の破綻が発生するようになり始めた。その債権が証券化されて高利回りの金融商品として世界各国に販売されていたことで、借り手の破綻から証券価格が暴落して、購入していた世界各国の大口投資家であった金融機関に大きな損失を発生させた。特に大口の投資をしていた欧州の金融機関の損失は甚大で、その損失を埋め合わせる為に、流動性のある株式や債券の売却を進めることになり、株価や高金利通貨の下落に拍車をかけ、下げが下げを呼ぶ展開となった。この相場の下落で財務体質が悪化した金融機関に信用不安が起こり、金融危機が連鎖的に世界中に発生するようになった。

加えて、時価会計制度の世界的な採用などで、会計基準の厳格化が進み、各国の金融機関はこれまで以上に損失の計上を余儀なくされたことや、おりからのBIS規制の強化もあり自己資本を維持するために投資資金の回収や資金供給の停止などに動いており民間資金流動性の枯渇を招いている。

2006年までアメリカでは住宅価格が上昇を続けていたが、同年に入りその伸びが急速に鈍化した。その影響が特に顕著に表れたのが、信用力の低い層のための住宅ローンであるサブプライムローンであった。このローンの債務者の一部は住宅価格の継続的な上昇を見込んだ返済計画を建てていたため、住宅価格低下の影響を受けて利払い延滞率が急激に上昇し始めた。債務者の利払い延滞が顕著となってくると、サブプライムローンの直接の貸し手である住宅金融専門会社に対する金融機関の融資が慎重になり、住宅金融専門会社の中には資金繰りが悪化して経営破綻する例が出始めた。さらにサブプライムローンは、貸し倒れの危険を分散させるために、分割・証券化され、世界中の金融機関の数多くの金融商品に組み入れられていたため、その金融商品そのものに対する信用リスクが連鎖的に広がることになった。このようなことにより、2008年にベア・スターンズの経営危機が明らかになると、金融危機が本格的に世界的に報道され始め、9月のアメリカ政府支援機関(GSE)のフレディマックとファニーメイ2社の実質的破綻と、リーマン・ブラザーズの破綻により、ついには爆発的に世界中で信用収縮が起こり世界金融危機が顕在化した。

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2008年10月3日に7000億ドル(70兆円)のアメリカ政府の公的資金を投入する緊急経済安定化法案が成立し、世界恐慌のおそれはとりあえず収まったが金融危機は継続し続けた。2008年のアメリカ大統領選挙を控えて、アメリカ政府は公的資金の資本注入に対する「自分たちの貧困と苦しみは『自己責任だから救済する必要はない』と放言してきたウォール街の金持ちを、なぜ自分たちの税金で助けるのか」というアメリカ国民の反対世論に配慮せざるを得ず、大規模な「金融機関への資本注入」に二の足を踏んだ。また、資本注入が必要な会社ほど、公的資金借り入れに伴う利払いによって株主への配当が減少し、経営者個人が損をした株主から訴訟を起こされる(そして、経営者自身もまた株主であり損をする)上、法案には公的資金を受けた企業の役員報酬を制限する(上記世論に配慮した)条項が明記されており、経営者はこれらの個人的なリスクよりも倒産を選んで公的資金を借り入れないのではないか、緊急経済安定化法は効果がないのではないかという疑問も提示されている。

2009年06月10日

日本政府案の作成と議会審議

2月13日に日本政府に提示された「マッカーサー草案」は、先に日本政府が2月8日に提出していた「憲法改正要綱」(松本試案)に対する回答という形で示されたものであった。提示を受けた日本側、松本国務大臣と吉田茂外務大臣は、総司令部による草案の起草作業を知らず、この全く初見の「マッカーサー草案」の手交に驚いた。[21]

「マッカーサー草案」を受け取った日本政府は、2月18日に、松本の「憲法改正案説明補充」[22]を添えて再考するよう求めた。これに対してホイットニー民政局長は、松本の「説明補充」を拒絶し、「マッカーサー草案」の受け入れにつき、48時間以内の回答を迫った。2月21日に幣原首相がマッカーサーと会見し、「マッカーサー草案」の意向について確認。翌22日の閣議で、「マッカーサー草案」の受け入れを決定し、幣原首相は天皇に事情説明の奏上を行った。

2月26日の閣議で、「マッカーサー草案」に基づく日本政府案の起草を決定し、作業を開始した。松本国務大臣は、法制局の佐藤達夫・第一部長を助手に指名し、入江俊郎・次長とともに、日本政府案を執筆した。3人の極秘作業により、草案は3月2日に完成した(「3月2日案」[23])。3月4日午前10時、松本国務大臣は、草案に「説明書」を添えて、ホイットニー民政局長に提示した。総司令部は、日本側係官と手分けして、直ちに草案と説明書の英訳を開始した。英訳が進むにつれ、総司令部側は、「マッカーサー草案」と「3月2日案」の相違点に気づき、松本とケーディス・民政局行政課長の間で激しい口論となった。午後になり、松本は、経済閣僚懇談会への出席を理由に、総司令部を退出した。夕刻になり、英訳作業が一段落すると、総司令部は、続いて確定案を作成する方針を示した。午後8時半頃から、佐藤・法制局第一部長ら日本側とともに、徹夜の逐条折衝が開始された。成案を得た案文は、次々に首相官邸に届けられ、3月5日の閣議に付議された。5日午後4時頃、総司令部における折衝はすべて終了し、確定案が整った。閣議は、確定案の採択を決定して「3月5日案」[24]が成立、午後5時頃に幣原首相と松本国務大臣は宮中に参内して、天皇に草案の内容を奏上した。翌3月6日、日本政府は「3月5日案」の字句を整理した「憲法改正草案要綱」(「3月6日案」[25])を発表し、マッカーサーも直ちにこれを支持・了承する声明を発表した。日本国民は、翌7日の新聞各紙で「3月6日案」の内容を知ることとなった。国民にとっては突然の発表であり、またその内容が予想外に「急進的」であったことから衝撃を受けたものの、おおむね好評であった。[26][27]
日本映画
バレエ
結晶学
ビリヤード
栄養ドリンク
キンボール
少子化
動物園
アレルギー
関東
為替レート
おつまみ
歌舞伎
運送
自動車工学
鳥インフルエンザ
サーフィン
薬膳
カバディ
高齢出産

3月26日、国語学者の安藤正次博士を代表とする「国民の国語運動」が、「法令の書き方についての建議」という意見書を幣原首相に提出した。これを主たる契機として、憲法の口語化に向けて動き出した。4月2日、憲法の口語化について、総司令部の了承を得て、閣議了解が行われ、翌3日から口語化作業が開始された。まず、作家の山本有三に前文の口語化を依頼し、作成された素案を参考にして、入江・法制局長官、佐藤・法制局次長、渡辺佳英・法制局事務官らの手により、5日に口語化第1次案が閣議で承認された。[28]4月16日に幣原首相が天皇に内奏し、まず憲法を口語化した後、憲法の施行後には順次他の法令も口語化することを伝えた。

4月10日、衆議院議員総選挙が行われた。総司令部は、この選挙をもって、「3月6日案」に対する国民投票の役割を果たさせようと考えた。しかし、国民の第一の関心は当面の生活の安定にあり、憲法問題に対する関心は第二義的なものであった。選挙を終えた4月17日、政府は、正式に条文化した「憲法改正草案」[29]を公表し、枢密院に諮詢した。4月22日、枢密院で、憲法改正草案第1回審査委員会が開催された(5月15日まで、8回開催。)。同日に幣原内閣が総辞職し、5月22日に第1次吉田内閣が発足したため、枢密院への諮詢は一旦撤回され、若干修正の上、5月27日に再諮詢された。5月29日、枢密院は草案審査委員会を再開(6月3日まで、3回開催。)。この席上、吉田首相は、議会での修正は可能と言明した。6月8日、枢密院の本会議は、天皇臨席の下、第二読会以下を省略して直ちに憲法改正案の採決に入り、美濃部達吉・顧問官を除く起立者多数で可決した。

これを受けて政府は、6月20日、大日本帝国憲法73条の憲法改正手続に従い、憲法改正案を衆議院に提出した。衆議院は6月25日から審議を開始し、8月24日、若干の修正を加えて[30]圧倒的多数(421票。日本共産党などの8名が反対[31])で可決した。

続いて、貴族院は8月26日に審議を開始し、10月6日、若干の修正を加えて[32]可決した。翌7日、衆議院は貴族院回付案を可決し、帝国議会における憲法改正手続はすべて終了した。

2009年06月06日

関東大震災

関東大震災(かんとうだいしんさい)は、1923年(大正12年)9月1日午前11時58分32秒(以下日本時間)、神奈川県相模湾北西沖80km(北緯35.1度、東経139.5度)を震源として発生したマグニチュード7.9、海溝型の大地震(関東地震)による災害。東京都・神奈川県・千葉県・静岡県の南関東地方の広い範囲に甚大な被害をもたらし、日本災害史上最大の被害を与えた。

死者・行方不明者 : 14万2800人
負傷者 : 10万3733人
避難人数 : 190万人以上
住家全壊 : 12万8266戸
住家半壊 : 12万6233戸
住家焼失 : 44万7128戸(全半壊後の焼失を含む)
その他 : 868戸
上記の従来の数字に対して、近年の学界では、実際の死者・行方不明者はより少なく10万5000人余だったという説が定着している

地震の発生時刻が昼食の時間帯と重なったことから、136件の火災が発生した。加えて能登半島付近に位置していた台風により、関東地方全域で風が吹いていたことが当時の天気図で確認できる。火災は地震発生時の強風に煽られ、「陸軍本所被服廠跡地惨事」で知られる火災旋風を引き起こしながら広まり、鎮火したのは2日後の9月3日午前10時頃とされている。

東京市内の建造物の被害としては、凌雲閣(浅草十二階)が大破し、建設中だった丸の内の内外ビルディングが損壊。また、大蔵省、文部省、内務省、外務省、警視庁など官公庁の建物や、帝国劇場、三越日本橋本店など、文化・商業施設の多くが焼失した。神田神保町や東京帝国大学図書館、松廼舎文庫も類焼し、多くの貴重な書籍群が失われた。

震源に近かった横浜市では官公庁やグランドホテル・オリエンタルホテルなどが石造・煉瓦作りの洋館であった事から一瞬にして倒壊し、内部にいたものは逃げる間もなく圧死した。更に火災によって外国領事館の全てが焼失,工場・会社事務所も90%近くが焼失した。千葉県房総地域の被害も激しく、特に北条町では古川銀行・房州銀行が辛うじて残った以外は郡役所・停車場等を含む全ての建物が全壊。測候所と旅館が亀裂の中に陥没するなど壊滅的被害を出した。
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なお、地震以後も気象観測を続けた東京の中央気象台では、1日21時頃から異常な高温となり、翌2日未明には最高気温46.4度を観測している[2]。 この頃、気象台には大規模な火災が次第に迫り、ついに気象台の本館にも引火して焼失していた。気象記録としては抹消されているものの、火災の激しさを示すエピソードである。

190万人が被災、14万人余が死亡あるいは行方不明になったとされる(上述のとおり、近年の学界の定説では、死者・行方不明者は10万5000人余と見積もられるようになった)。建物被害においては全壊が10万9千余棟、全焼が21万2千余棟である。地震の揺れによる建物倒壊などの圧死があるものの、強風を伴なった火災による死傷者が多くを占めた。津波の発生による被害は太平洋沿岸の相模湾沿岸部と房総半島沿岸部で発生し、高さ10m以上の津波が記録された。山崩れや崖崩れ、それに伴なう土石流による家屋の流失・埋没の被害は神奈川県の山間部から西部下流域にかけて発生した。特に神奈川県根府川村(現、小田原市の一部)の根府川駅ではその時ちょうど通りかかっていた列車が駅舎・ホームもろとも土石流により海中に転落し、100人以上の死者を出したといわれ、更に村も山崩れにより壊滅したという。

文化人で被害に遭ったのは英文学者・評論家の厨川白村で、鎌倉で津浪に襲われて死亡した。また、避暑に郊外へ来ていた皇族からも3名の死者が出ており、小田原では閑院宮御別邸が倒壊し寛子女王(17歳)が下敷きとなって死去、また藤沢で東久邇宮家の師正王(6歳)が避暑先の別荘の倒壊で死去、鎌倉では山階宮武彦王妃の佐紀子女王(20歳)が別邸の倒壊により死去した。

2009年04月23日

永井荷風

永井 荷風(ながい かふう、1879年(明治12年)12月3日 - 1959年(昭和34年)4月30日)は、日本の小説家である。耽美的な作風で明治から昭和にかけて活躍した。本名は永井 壯吉(ながい そうきち)。号は断腸亭主人、金阜山人。

1879年 - 東京市小石川区金富町に愛知県士族[1]で内務省衛生局事務取扱の永井久一郎・つね夫妻の長男として生まれた。
1883年2月 - 弟貞二郎出生 しばらく荷風は下谷竹町の鷲津家に預けられ祖母に育てられる。
1884年 - 鷲津家から東京女子師範学校附属幼稚園に通う。
1886年 - 小石川の実家に戻り小石川小日向の黒田小学校初等科に入学。
1887年11月 - 弟威三郎出生
1889年4月 - 黒田小学校尋常科第4学年を卒業。7月、竹早町の東京府尋常師範学校附属小学校高等科に入学。
1891年9月 - 神田一ツ橋の高等師範学校附属学校尋常中学校第2学年に編入学。
1897年3月 - 中学校第5学年を卒業。 7月、第一高等学校を受験するが不合格。9月から11月まで両親、弟たちと一緒に上海で生活するが、帰国して神田一ツ橋の高等商業学校(現一橋大学)附属外国語学校清語科に臨時入学する。
1898年9月 - 「簾の月」という作品を携え広津柳浪に入門。
1899年1月 - 落語家6代目朝寝坊むらくの弟子になり三遊亭夢之助の名で席亭に出入りする。しかし父の反対で落語家修行を断念する。12月外国語学校を第2学年のまま除籍となる。
1900年 - 歌舞伎劇作者福地桜痴の門下となった。
1901年4月 - 日出国新聞に転じた桜痴とともに入社、雑誌記者になる。9月、同社を解雇。フランス語の初歩を学ぶ。年末ゾラの作を読み感動する。
1902年9月 - 『地獄の花』を刊行、ゾライズムの作風を深めた。
1902年9月 - 父の勧めで渡米
1905年6月 - ニューヨークに出、翌月からワシントンの日本公使館で働く。12月、横浜正金銀行ニューヨーク支店に職を得る。
1907年 - 正金銀行リヨン支店に転勤。
1908年6月 - 銀行をやめた後、2か月ほどパリに遊ぶ。7月、神戸に到着。8月、『あめりか物語』を発表。
1909年3月 - 『ふらんす物語』刊行直前に発禁となる。
1910年2月 - 慶應義塾大学文学科刷新に際し、同学科顧問・森鴎外の推薦により、教授に就任。5月、雑誌『三田文学』を創刊、主宰した
1911年11月 - 「谷崎潤一郎氏の作品」を『三田文学』に発表。
1912年9月 - 材木商斎藤政吉の次女ヨネと結婚。
1916年2月 - 慶應義塾を辞め、『三田文学』から手をひくこととする。
1917年9月 - 日記の執筆を再開(『断腸亭日乗』の始まり)
1944年3月 - 親戚である大島一雄(杵屋五叟)の次男永光を養子として入籍。
1945年3月 - 東京大空襲で偏奇館消失。6月、明石を経て岡山へと疎開。8月、岡山県勝山町に疎開中の谷崎潤一郎を訪問したのち岡山市郊外の避難先に帰り、そこで終戦を知る。
1952年11月 - 文化勲章受章。
1954年1月 - 日本芸術院会員に選ばれる。
1959年 - 79歳で没。死因は胃潰瘍。
東京都豊島区の雑司ヶ谷霊園に眠る。ほかに、故人の遺志があった南千住の浄閑寺に、知友有志が建立した詩碑と筆塚がある。

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荷風の住まい
1879年12月 - 東京府東京市小石川区金富町(現・文京区春日二丁目)に生まれる
(生家の思い出をもとに小説『狐』を書く)
1890年 - 父が文部大臣芳川顕正の秘書官となり麹町区(現・千代田区)永田町の官舎に移る
1891年 - 一家は小石川の本邸に帰る
1893年11月 - 父、金富町の邸宅を売却し、一家は麹町区飯田町の黐(もち)ノ木坂中途の借家に移転
1894年10月 - 麹町区一番町の借家に移転
1902年 - 家族とともに東京市牛込区大久保余丁町(現・新宿区余丁町)に転居
1903年-1908年 アメリカ、フランス滞在
1918年12月 - 東京市京橋区築地(現・中央区築地)に転居(断腸亭)
1920年 東京市麻布区市兵衛町(現・東京都港区六本木)に転居(偏奇館)
偏奇館(ペンキ塗りの木造洋館=ペンキ館であったことにちなむ名称)は、空襲で焼失した。跡地は六本木一丁目の再開発(泉ガーデンタワー)により地形さえ留めていない。
1945年3月 - 東京大空襲により偏奇館消失 6月 - 岡山県に疎開
1946年1月 - 千葉県市川市菅野の杵屋五叟の転居先に寄寓。
1947年1月 - 千葉県市川市菅野の小西茂也方に寄寓
1948年12月 - 市川市菅野に売家を求めて転居。
1957年3月 - 市川市八幡町に転居。

2009年04月19日

アメリカ合衆国の経済成長と海外進出

南北戦争の節で触れたように、南北戦争による北軍の勝利は、北部の資本による米国市場の統一を意味した。大陸横断鉄道の開通により、米国市場の統一が進んだ。アンドリュー・カーネギーは鉄鋼の需要を見越し、キーストン鉄橋会社を設立し、事業に成功し鋼鉄王の異名を取り巨万の富を得た。また、ジョン・ロックフェラーは1863年にスタンダード・オイル社を設立し、買収を繰り返し石油事業の独占を進めていった。金融業界では、ジョン・モルガンが父であるジニーアス・モルガンよりJ. S. モルガン&カンパニーの事業を受け継ぎ、JPモルガン・チェースを設立。1892年エジソン・ジェネラルエレクトリック社とトンプソン・ヒューストンエレクトリック社の合併を実現させ、ゼネラル・エレクトリックを、1901年にはカーネギーが持つ製鉄会社を買収し、その他複数の製鉄会社と合わせてUSスチールを設立。金融業界から電気、鉄鋼などの産業への支配を強めていった。彼ら資本家は事業の成功で得た富を慈善事業に使ったことより、泥棒男爵と揶揄された。

金融資本、鉄鋼、石油といった産業資本による独占資本の形成は、放置しておくと市場の競争の阻害要因となってしまった(市場の失敗の発生)。その為、連邦政府は、1890年シャーマン法を制定し独占の阻止を図った。

一方、農民や労働者階級の貧困による不満が高まるようになってきた。サミュエル・ゴンパーズは待遇改善のために、1886年アメリカ労働総同盟を設立した。また、人民党_(アメリカ合衆国)(en)が1892年設立され、中西部や南部の農民の支持を得た。

フロンティアの消滅及び第二次産業革命の進展による重化学工業の発展の結果、米国国民は新たな市場として海外市場を希求した。その結果、歴代のアメリカ大統領は世論に応えるべく、対外的に膨張政策を推進していった。

ウィリアム・マッキンリー大統領はモンロー主義を脱却し、米西戦争及びその後の米比戦争でフィリピン、グアム、プエルトリコを獲得し、ハワイ王国を米西戦争中に併合した。後を襲ったセオドア・ルーズベルトは棍棒外交を推進し、コロンビアからパナマを独立させ、パナマ運河の工事権及び租借権を獲得する一方、日露戦争ではロシアの南下政策に対抗するために日本を支持、ポーツマス条約を周旋した。日露戦争後、日露両国の満州に対する半植民地化(日露協約)を牽制するために、1907年アメリカ海軍による世界一周航海のためグレート・ホワイト・フリートを派遣した。ウィリアム・H・タフトは中南米や東アジアに米国の資本による影響を与えるといったドル外交(en)を推進した。

太平洋地域の分割と自治国の成立
オセアニアは18世紀後半にイギリスのクック(上述)、フランスの航海家ブーガンヴィルが探検していた。

カメハメハ大王(カメハメハ1世)はハワイ諸島を統一して1810年にハワイ王国を建国したが、1893年の革命で共和制となり、1898年、マッキンリー大統領がハワイの米国領への編入を宣言。この日、イオラニ宮殿に掲げられていたハワイ王国国旗が降ろされ、星条旗が揚げられた。続いてフィリピン、グアムがアメリカに併合された。

太平洋地域でフランスが領土としたのは、1853年にフランス領となったニューカレドニアや、1880年に正式に植民地となったタヒチがあった。

ドイツ領としては、1884年に保護領となったビスマルク諸島、1885年のマーシャル諸島、1893年のソロモン諸島北部、1899年にスペインからドイツに売却されたカロリン諸島、マリアナ諸島、パラオ諸島、1885年に植民地となったニューギニア島北東部などがあった。

イギリスは、1884年にパプア・ニューギニア、1888年にボルネオ島北部、1893年にソロモン諸島南部、1900年にトンガを領有し、さらに1906年にニューヘブリデス諸島をフランスとの共同統治領とするなど、太平洋地域の島嶼部はこの時代、列強の争奪の的となった。

オーストラリアは一時イギリスの流刑地とされていたが、1850年に一定の自治権をあたえられ、51年の金鉱発見以降移民が増えた。アボリジニを追いやり、中国人移民を排斥して「白豪主義」をかかげたオーストラリア連邦(Commonwealth of Australia)は、1901年にイギリス帝国内の自治国となった。またニュージーランドでは19世紀に植民したイギリス人と先住民マオリの戦いが続いたが、1893年、世界にさきがけて婦人参政権を実現し、1907年にやはりイギリス帝国の自治国となった。

アフリカの分割とボーア戦争
19世紀前半、ヨーロッパ各国は奴隷貿易を廃止するとともに、「暗黒大陸」とよばれたアフリカへの関心を高め、多くの探検がなされた。アフリカの資源のゆたかさが明らかになると、列強は侵入をくわだて、アメリカ出身の探検家ヘンリー・モートン・スタンリーから情報を得たベルギー王レオポルド2世はコンゴを支配した。一方、1882年にイギリスがウラービー革命を武力で鎮圧してエジプトを占領し、事実上保護領化とした。これらが引き金となって列強によるアフリカ分割が一気に加速した。

ベルギーのコンゴ支配に関して、1884年、ビスマルクの提唱によりベルリン会議がひらかれ、列強は「アフリカの土地先占権」(「無主地」の「有効な占有」)の原則を認めてアフリカ分割の合意がなされた。ここに侵略競争が公然と始まったが、ヨーロッパ諸国はアフリカ分割に際し、部族の相違や住民の文化・社会慣習を無視して境界線を引いたため、古くからの住民相互のきずなが断ち切られる一方で、あらたな対立が生じた。1960年代以降の独立後も植民地時代の境界が新国家の国境となって内戦や紛争の原因になっている。経済的な搾取に加えて、こうした政治的な分断支配に対しアフリカ各地で抵抗をよびおこした。

エジプトの属領だったスーダンでは、ウラービー革命とほぼ同時期に「マフディー」(「救世主」という意味)を名のる指導者ムハンマド・アフマドがあらわれ、外国支配や重税に不満をいだく民衆を結集して立ち上がった。イギリスが軍事介入をこころみたが失敗し、10年以上を費やして、ようやく1898年にマフディー国家を滅ぼしてスーダンを支配下におくことに成功した。しかし、このイスラーム教徒の戦いは、アフリカ各地の部族連合王国の抵抗を勇気づけた。

1879年、アフリカ南部においてズールー王国がイギリスの侵略に抵抗した。イギリスはさらに、セシル・ローズ率いるケープ植民地の北方にボーア人[23]がたてたトランスヴァール共和国、オレンジ自由国に侵入し、ボーア戦争をおこした。イギリスは、激戦のすえ最後の戦いに勝利したものの、その強引な侵略、非人道的とも思える強制収容所の設置や焦土作戦などを行ったため国際世論の批判を浴びた。このことは、のちに従来の「栄光ある孤立」とよばれる非同盟外交を改めて日本との間に軍事同盟を結ぶ契機となった。イギリスは1910年、南アフリカ連邦を成立させ、自治領とした。こうしてイギリスは、カイロとケープタウンをむすぶ地域に勢力をおくアフリカ縦断政策をすすめた。

一方、フランスはセネガルとアルジェリアからサハラ砂漠を東進してインド洋沿岸のジブチに向かうアフリカ横断政策をとり、1881年にはチュニジアを保護国化した。西アフリカのギニアでは、サモリ・トゥーレのひきいる民衆がフランスに抵抗した。また、東進するフランスとエジプトから南進するイギリスとがスーダン南部で遭遇するファショダ事件(後述)が起こっている。

ドイツ帝国はカメルーン、東アフリカ(現在のタンザニア)、西南アフリカ(現在のナミビア)などを領有し、皇帝ヴィルヘルム2世は二度にわたるモロッコ事件(後述)を引き起こした。

こうしたなか、エチオピアは1896年アドワの戦いでイタリア軍をやぶり独立を守った。こののちエチオピアは周辺諸国を分割する側にまわった。

イタリアはこののち、オスマン領だったトリポリ、キレナイカ(ともに現在のリビア)を占領した。

こうして、1876年には大陸全体の1割に満たなかった植民地の占める割合が、1900年には9割におよぶまでとなり、第一次世界大戦前の独立国はエチオピア帝国とリベリア共和国だけになってしまった。

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清朝による近代化の挫折と中国の分割
咸豊帝が若くして死ぬと、権力を掌握したのが西太后だった。西太后は東太后、咸豊帝の弟である恭親王奕訢と提携し、辛酉政変によって反対派の粛清に成功すると、幼い同治帝に代わって政治の実権をにぎり、東太后とともに垂簾聴政を実施した。
恭親王奕訢は清朝の後進性を打破するために、曽国藩や李鴻章、左宗棠といった漢人官僚を登用した。彼らは、西洋の近代技術を取り入れ軍隊の近代化を図るべく、1861年に曽国藩が安慶内軍械所を建設するなど、1860年代には兵器工場を建設し[24]、1880年代になると、繊維工場を建設していった。しかし、これらの工場は「官督商弁」と呼ばれる半官半民の企業であり、その実態は乱脈経営を行う商人を官僚が監督するといったものだった。

同治帝の時代は、ともかくも内政面では諸外国からの圧力が減少し、洋務派の手によって中体西用の路線が採られ、皮相的にではあるが西洋技術を採用して「同治中興」と呼ばれる比較的安定した時代となった。しかし、1875年に同治帝が18歳の若さで死去し、4歳児の光緒帝が即位するころになると、清の辺境では着々と列強が進出を図っていた。東トルキスタンのヤクブ・ベクが反乱を起こして独立を企図すると、1871年にはロシアがそれにつけこんでイリ地方に出兵した。最終的には左宗棠がヤクブ・ベクの乱を鎮圧し、1881年には曽国藩の息子である曽紀沢の努力により、イリ条約を締結してイリ地方の一部をロシアに割譲、新疆全体を対露貿易に開放して事態の鎮静化を図った。また、1884年にはヴェトナム支配をめぐってフランスと衝突、清仏戦争が起こったがそれに敗退し、天津条約でヴェトナムに対する宗主権を喪失した。

日本は台湾出兵以後、琉球王国を日本領として編入することに成功し、また、江華島事件以降、甲申事変などにより朝鮮半島への進出を図っていった。1894年東学党の乱を契機に日清戦争が勃発すると、日本軍は連戦連勝、李鴻章が建設した北洋艦隊も破り、最終的には1895年下関条約が締結されることとなり、ここに東アジアの伝統的国際秩序である冊封体制は終焉を迎えた。日清戦争敗北後、欧米列強は清朝への侵略を進めていき、半ば植民地の状態になった。列強諸国は借款を通じて、鉄道敷設権・鉱山採掘権などの各種利権を獲得し、各地に租借地を獲得していった。なお、このような中国分割の状況に対し、米西戦争後アジアへの関心を急速に深めたアメリカのジョン・ヘイ国務長官は1898年「門戸開放宣言」を発し、「門戸開放」と「機会均等」をかかげ、翌年には「領土保全」を提唱して、中国分割に加わった。
1898年、光緒帝は康有為、梁啓超を登用し日本の明治維新を模範とする変法自強運動を行ったが、西太后の反発により失敗(百日維新)に終わり、康と梁は日本に亡命した(戊戌政変)。

こうしたなか、列強の侵略が急激に集中した華北では、窮乏化した民衆の矛先がキリスト教会や鉄道などに向けられ、とくに山東省を中心にひろまっていた義和団が「扶清滅洋」を唱えて排外運動をおこし、1900年に北京にはいって外国の公使館を包囲した。清朝はこれを支持して、各国に宣戦布告した。列国は、日本とロシアを主力とするイギリス、アメリカ、フランス、ドイツ、オーストリア、イタリアの8か国連合軍を派遣して北京を占領し、公使館の包囲を解いて義和団と清軍をやぶった(北清事変)。列強は翌年、清朝と北京議定書(辛丑条約)をむすび、これにより清は列国に賠償金を支払い、外国軍隊の北京駐留を認めさせられた。1937年、日本の北京駐留軍が何者かによって攻撃を受けたことから廬溝橋事件が起こった。

2009年04月04日

鏡岩善四郎

鏡岩 善四郎(かがみいわ ぜんしろう、1902年5月4日 - 1950年8月6日)は、大相撲の力士である。青森県十和田市出身、粂川部屋所属。最高位は大関。本名は佐々木善四郎。現役時代の体格は身長173cm、体重113kg。得意手は右四つ、寄り。

来歴 [編集]
郷里で怪力で知られ、草相撲で鳴らした。1922年1月場所初土俵を踏む。入門が遅かったせいもあって、昇進は遅々としていて、新十両(1927年10月場所)、新入幕(1928年3月場所)は25歳と当時としても速くはなかった。怪力から猛牛というあだ名がついていたが、相撲はゆったりとしていた。そのためか、幕内でもゆったりと牛の歩みのごとく、1932年1月の「春秋園事件」では革新力士団に加わり一時脱退したこともあり、復帰後新小結(1934年5月場所、この場所11戦全敗であった)にはすでに29歳となっていた。

負け越して平幕に陥落した翌1935年1月場所、駒ノ里に敗れただけの10勝1敗で玉錦と並んで優勝同点、そこから一気に上昇気流にのって、1936年1月場所には新関脇、そこで8勝3敗、9勝2敗と続けて、双葉山と並んで新大関を決めた。そのとき34歳になっていた。

1938年からは師匠の死によって二枚鑑札で粂川部屋を継承した。そのころから男女ノ川を居反りの奇手で、また羽黒山を二丁投げで破るなど多彩な技を揮うようにもなった。1939年5月、2場所連続負け越したところで現役を引退、年寄専任となり検査役も務めた。粂川部屋は、彼の時代に何人かの十両力士を出したが、1941年末に、双葉山が立浪部屋から独立して双葉山道場を興したとき、双葉山の人柄に心酔していたことから部屋の力士全員を双葉山に譲って部屋を閉じ、部屋付親方としてその後の人生を送った。この際に弟子全員を集め「いいか、今日から日本一の双葉山がおまえたちの師匠だ」と言ったそうである。この中に後の横綱鏡里がいる。

1939年1月場所11日目、盤石との対戦で、水が入って二番後取り直しとなったが、棄権を申し出たところ、相手の磐石が不戦勝を承諾しなかったので、二人とも不戦敗という珍しい記録を残しているのも、彼の人柄を表している。

二の腕に「花」と一文字、小さい刺青を入れていた。裸を見せる力士に刺青は当然御法度だったが、見逃されていた(見ぬふりをされていた)ようだ。由来について花のごとく潔く散ろうという心意気だとか、かつての愛人の名だとか、人々は想像を巡らしたが、本人は死ぬまで明かさなかった。

主な成績 [編集]
通算成績:239勝183敗4休1預(47場所) 勝率.566
幕内在位:30場所(大関6場所、関脇2場所、小結1場所)
幕内通算成績:174勝153敗4休 勝率.532
大関通算成績:36勝42敗 勝率.462
金星:1個(宮城山)
各段優勝:序ノ口1回(1922年5月場所)、幕下1回(1927年5月場所)

わっしょい ダード オフコ 検索村祭 コーヒー ビザウェー マンボン カイモ ハイス レザーク スパイ ナイジェ ループ ファンベト 私が主役 デイラ ストライカー キシング クアハ ワンシ ハイソ メタフ ツーロン ワイキキ デリカシー メモリ セッショ メタノール マイカ タチバナ ストレート リポート ジャンダ トメーシ オブシデ メダル サージ グリース シーモス ロビイング ドライブ ルレット シェンド ツイード スーサ クロス わっさむ レーキ ニーム トーチャー

2009年03月21日

東京対北陸夜行列車の沿革

1959年7月18日 臨時列車として、上野 - 金沢間を信越本線経由で運行する夜行急行列車「黒部」の運行を開始。
1960年 「黒部」定期列車化。
1965年10月1日 上野 - 福井間を信越本線経由で運行する夜行急行列車「越前」の運行を開始。
1968年10月1日、「黒部」の経由地を上越線長岡駅経由に変更。同じ区間を運行する急行「北陸」の季節列車となる。
1975年3月10日の改正で、寝台特急「北陸」の補完を目的に現行の運行経路(上野 - 金沢間、上越線経由)で「能登[2]」の名称を与えられる。
スハ43系客車・10系客車・スロ62形客車を主に使用し、荷物車のスニ41形を併結した。
1982年11月15日 上越新幹線開通によるダイヤ改正で、「能登」の経路を上越線経由から信越線経由に変更。また「越前」が臨時列車に格下げ。
座席車・寝台車を混成した14系客車の編成で運転され、マニ50形荷物車も連結。車両の担当は金沢運転所である。
1985年3月14日 車両の担当を金沢運転所から尾久客車区(現・尾久車両センター)へ移管。
1986年11月1日 小荷物輸送の全面廃止により、荷物車の連結を終了する。
1987年4月1日 国鉄分割民営化により「能登」は東日本旅客鉄道(JR東日本)の担当となる。以後1993年の電車化までJR東日本が車両を担当。
1989年7月 「能登」、快速「のと朝市号」の名称で七尾線七尾駅まで臨時延長を行う。
14系寝台車3両と14系座席車1両の編成で、牽引機はDE10形を使用。
観光シーズンのみ延長運転、秋には輪島駅まで運転。七尾線への延長運行は1992年まで行う。
1993年3月18日のダイヤ改正に伴い、「能登」運行形態を大幅に変更。
みかんいろ バリトン サーファ マスター ハンディー ニュルン すみのえ ロフルス タラップ ステン ハート フォロワー ダイヤ ディク ランド パーク カーブ シャト ラン トップ とうたい ジャン ルー メルク ニックス カレワ とうみょう ぶきいろい ディッシュ ラベル タオイズ ダイアモンド ショウ ベッド おじま ハイボー タイプライ 宇宙ステー ピンタック オートクチ ティンカー カラム モッコク ヤード きくらげ トータル ケトン ヒョウ メンバー チャンネル

従来臨時急行として運行していた「越前」を統合する形で福井駅発着に。
14系客車での運転を終了し、特急形電車489系電車による運転となる。エル特急「白山」(上野 - 金沢)と共通の車両で、同時に寝台車連結を終了して全車が座席車となり、寝台特急「北陸」との差別化がなされた。これに伴い、車両の管轄がJR東日本から現行のJR西日本へと変更。
このとき廃止した上野 - 長野間の夜行急行列車「妙高」のダイヤを踏襲し、下り列車の高崎線内の停車駅を増加。
1997年10月1日の北陸新幹線(長野新幹線)開業に伴う信越本線・横川 - 軽井沢間の廃止により、「能登」が再び上越線経由に。
長野新幹線の工事中は、週1回上越線経由(迂回区間は客扱いせず)で運行。
2001年3月3日のダイヤ改正で、「能登」の運転区間が金沢駅までに短縮。運転区間が寝台特急「北陸」と同一に。
2002年12月1日のダイヤ改正で、「能登」下り列車の高崎線内の停車駅を削減。併せて上野駅発車時刻を30分ほど繰り上げ、ホームライナーなみの通勤客輸送自体は減少。
2004年10月23日に発生した新潟県中越地震の影響により2005年3月24日まで運休。
年末年始の帰省客のために、2004年12月30日から2005年1月3日までの期間に限り通常の区間で運転。
2005年2月11日より3月11日までの金曜日・土曜日および3月18日から3月20日までの間に出発し、北越急行ほくほく線を経由する臨時列車「能登91・92号」が運行。
ほくほく線経由の運行では、途中駅で運転方向が変わる「逆編成」区間がないため、JR西日本管内では通常と逆の編成で運転された。このため、運行開始前と運行終了後に、「能登」で運用する489系電車を金沢から大阪まで回送し、宮原操車場・北方貨物線・大阪駅経由で方向転換を行った。
2007年7月16日に発生した新潟県中越沖地震の影響(信越本線一部区間の運転見合わせ)により、同年9月12日まで運休。9月13日発より運転再開。

2009年03月06日

水虎(すいこ)

水虎(すいこ)は、中国や日本の水の妖怪。日本と中国では妖怪像がまったく異なる。

中国の古書『本草綱目』に記されている、湖北省の川にいたという妖怪[1]。外観は3,4歳の児童のようで、体は矢も通さないほどの硬さの鱗に覆われている[2]。普段は水中に潜っており、虎の爪に似た膝頭だけを水上に浮かべている。

普段はおとなしいが[1]、悪戯をしかけるような子供には噛みつき返す[2]。この水虎を生け捕りにすることができれば、鼻をつまむことで使い走りにすることができるという[2]。

鳥山石燕も『今昔画図続百鬼』でこの記述を引用しており、水虎の鱗をセンザンコウにたとえて表現している。

日本の水虎
日本には本来、中国の水虎に相当する妖怪はいないが[2]、中国の水虎が日本に伝えられた際、日本の著名な水の妖怪である河童と混同され、日本独自の水虎像が作り上げられている[1]。

日本では水虎は河童によく似た妖怪[1]、もしくは河童の一種とされ[4]、河童同様に川、湖、海などの水辺に住んでいるとされる[4][5]。体は河童よりも大柄かつ獰猛で[4]、人の命を奪う点から、河童よりずっと恐ろしい存在とされる[1]。

長崎県では年に一度、人間を水中に引き込んで生き血を吸い、霊魂を食べて死体にして返すという[1]。青森県では子供ばかりを襲い、水遊びをしている子供を水中に引き込み、命を奪うという[1]。琵琶湖付近や九州の筑後川付近では、水虎が夜更けに悪戯で人家の戸を叩いたり、人に憑くこともあるという。

水虎が人間を襲う理由は、水虎が龍宮の眷属であり、自分の名誉を上げるためとされる[1]。また水虎は48匹の河童の親分であり、河童が人間に悪事を働くのも自分の地位を水虎に上げてもらうためとされる。

撃退する方法として、水虎に血を吸われた人間の遺体を葬らずに、畑の中に草庵(草で作った簡易な小屋)を作り、その中に遺体を板に乗せて置いておくという方法がある。このようにすると、この人間の血を吸った水虎は草庵の周囲をぐるぐる回り始め、遺体が腐敗するに従い、水虎の肉体も腐敗するとされる。水虎は身を隠す術を使うため、姿を見せずに声が聞こえるのみだが、水虎の体が腐りきって死に至ると、ようやく姿を現すのだという[4]。
シントニア タコス オイル マヤ吉 ケルン ミーハー ボタン たこいと デュアル アルル ライン アクサ ビー玉 ロコモコ ライフ テナー クチル トッププ ナズナ ロベニア シタニア キング ブルー レンド ハファダ シリア マリンホス タイトス リテール シラー カノープス きねづか ブダペ スノーグ チョウゲ フルタイ モミジ デブリ ブラッシ 深海魚 シルバー ビーテ トライ サイキック ブレッツ プルーフ すいか くもり ダッジ ミーア

また、水虎を避ける方法として、家に鎌を立てかけておく、麻殻や大角豆を家の外に撒くなどの方法もある。

地方によっては水虎は河童の別名のような感覚で用いられており、水虎を捕獲したという記録が、河童状の絵とともに残されている事例もある

2009年02月14日

ダンシング・クレイジーズ

賞金稼ぎ
主に賞金首を相手にする非合法の職業。フリーランスで活動するものは少なく、大体が組織に所属していることが多い。
AZ(アルファベット)
殺し屋のランキング。A?Zまでの一文字を冠する。殺し屋の中でも特に名の知られている人間にしか与えられない称号。
殺し屋の誓約(アグリメント)
AZが知られるようになってから殺し屋同士の殺し合いが激化したため、その状況を憂いて作られた組織。上下関係もなく、加盟している者同士の抗争や謀殺を禁止したもの。

閃光(フラッシュ)

本名は伊奈瀬晶(いなせ あきら)。本編の主人公。イギリスで犯罪集団 “殺し屋の誓約(アグリメント)” のエースとして活躍していたが、安息を求めて日本へ帰国、山高倉商事へ就職した。しかし、葉木崎零によって半ば強引に賞金稼ぎに引き込まれ、再び闇の活動に手を染めることになる。武器や銃弾は自宅の冷蔵庫に隠してある。
リンテール 

声:大波こなみ
死神。自在に姿を消したり、閃光とは一蓮托生の間柄であるためテレパシーによって遠隔地から会話したりすることができる。閃光が外出する際には自宅に留まって姫子を護っている。一応メインヒロインという設定だが、姫子や女王蜂よりも明らかに影が薄い。
葉木崎零(はきざき れい)

声:松永雪希
案山子というコードネームを持つが、閃光からは本名で呼ばれている。賞金稼ぎで事務員を務める少女。賞金稼ぎ幹部と閃光の仲介役。賞金稼ぎに賞金首の情報を提供する。パソコンの前では少しだけ性格が変わる。
女王蜂 

声:羽高なる
本名は葉木崎唯(はきざき ゆい)。葉木崎零の妹。加来山府の不良グループ “蜂の巣” を仕切るスケバン。賞金稼ぎになることを夢見ており、府内の悪漢を退治しながらスカウトが来るのを待っている。後に閃光によって晴れて正式な賞金稼ぎとなる。強気な性格だが、閃光のことは師匠と呼んで慕っている。
狂犬 

声:眞嶋リョウ
本名は多田真一郎(ただ しんいちろう)。閃光の帰国後にできた友人で、閃光、闘犬と比肩する優秀な賞金稼ぎ。短気で好戦的な性格。かつては警察官だったが、より積極的に犯罪者を退治できる環境を求めて賞金稼ぎに転向した。だが、過激なところがあるため、自身が警察のお世話になることも多い。
闘犬 

声:一条光
本名は松島将也(まつしま まさや)。狂犬と同じく、閃光の帰国後にできた賞金稼ぎの友人。狂犬よりも冷静で温厚。一見すると孱弱そうな青年であるが、意外にもヤクザの出身。

カタギの者
伊奈瀬姫子(いなせ ひめこ)

声:北都南
閃光の娘。健気で明朗な性格。父の本業もリンテールの存在も知らない。本編のみならず、おまけでも攻略は不可能。彼女の出生にはリンテールの存在が大きく関わっている。
秋村美雪(あきむら みゆき)

声:三島由紀
閃光と同じく山高倉商事に勤める女性。広報部の課長。姫子とは道で偶然出会って以来仲が好い。母親のいない姫子を寂しがらせないようにと、たびたび閃光の自宅に押しかけてくる。果ては隣の部屋に押しかけてくる。
母校は、前作『レベルジャスティス』で登場したロータス学園。

殺し屋の誓約(アグリメント)
教授 

声:ミノベサトル
本名は不詳。二重人格を自称しており、第一の人格をアイン、第二の人格をツヴァイという。表の顔は大学教授。その正体はイギリスの犯罪集団 “殺し屋の誓約” の首領。組織を離脱した閃光に制裁を加えるべく、刃、爆弾とともに来日する。アインが眠る時にはツヴァイが起き、ツヴァイが眠る時にはアインが起きることで不眠を達成しているというが、事実かどうかは不明。閃光が幼い頃には父親代わりの存在だった。
刃(ブレード)

声:羽賀ゆい
閃光からはサクラと呼ばれている。日本人の血を引く女性の暗殺者。イギリスで孤児として彷徨っていたところを若き日の閃光に拾われ、暗殺者として育てられた。閃光のことを慕っており、当初は敵として襲ってくるものの、後に和解する。
同じく閃光に拾われた拳(ナックル)(閃光からの愛称はカエデ)という実妹がいたが、こちらは閃光が帰国する前に死亡している。
爆弾(ボム)

声:原田友貴
本名は不詳。爆発物を用いた破壊活動を専門とする犯罪者。色黒で肥満型の男性。表の顔は図書館の司書。兇悪そうな容姿だが実際には穏和な性格。かなりの読書家で、自宅には大規模な書斎と書庫がある。
蜘蛛(スパイダー)

声:西田こむぎ
本名はミリア・レムエイト。殺し屋の誓約の大幹部。閃光が幼い頃には母親代わりの存在だった。現在の閃光には嫌われている。サディストかつ両性愛の嗜虐的な女性。
顔(フェイス)

声:渋谷ひめ
ルネリアとも呼ばれるが本名は語られない。変装を得意とする。閃光よりも腕が立ち、殺し屋の誓約の中でも上位に入る。神出鬼没の存在で、たびたび閃光に助言を与える。閃光の前へは一貫して豊胸の女性の姿で現れるが、男性にも変装できることから、本来は貧乳であると思われる。性別は不詳で、姫子と同じくおまけでもHシーンが補完されていない。
真昼に踊る犯罪者に姉が登場する。

出題者(クエスチョン)
死の行進(パレード)

声:逢川奈々
ある殺し屋の子飼いの暗殺グループの一人。閃光の周りの人たちを狙ってくる。
牙(ファング)

声:蓮香
ある殺し屋の子飼いの暗殺グループの一人。閃光の周りの人たちを狙ってくる。
暴走列車(トレイン)

声:春日アン
ある殺し屋の子飼いの暗殺グループの一人。閃光の周りの人たちを狙ってくる。

何でも屋とその支援者
全てのキャラクターが『真昼に踊る犯罪者』にも登場している。ただし、クリスは例外的に『うえはぁす?お姫様は今日も危険でした?』からの出演である。なお、何でも屋という名称は、山県一義個人を指す通称として用いられる場合と、彼が率いる組織全体の名前として用いられる場合の二通りがある。以下では後者の用法に統一する。

何でも屋 

声:機知通
本名は山県一義(やまがた かずよし)。手下からは局長と呼ばれている。白いスーツに身を包んだ青年。裏社会の覇者として君臨しており、その道の人間ならば名前を知らない者はいない。非合法活動のみならず、報酬が出るならば合法的な依頼も引き受ける。あくまでも報酬で動くため、閃光に味方することも、教授に味方することもある。
『真昼に踊る犯罪者』の主人公。イングリッシュネームはライワード。
奥平鈴(おくだいら すず)

声:神崎ちひろ
忍者の末裔を自称する少女。腕は確かだがドジっ娘である。何でも屋では主に諜報活動を担当する。
葵宮子(あおい みやこ)

声:冨樫ケイ
猫又。性格に似合わず家庭的な女性。何でも屋の中では格闘派だが、配下の猫を使った情報収集や撹乱もする。
アーティ・ブルックリン 

声:大波こなみ
何でも屋の局員の一人。かつては暗殺人形の異称を持つ暗殺者だった。もともと無口な上、日本語を母国語としないため、たどたどしい話し方をする。何でも屋では主に裏の仕事をする。
発売後に公式サイトで行われたアンケートによれば、この作品の登場人物の中では最も人気が高い。
山春日霧姫(やまかすが きりひめ)

声:羽賀ゆい
財閥 “山春日グループ” の会長。何でも屋の非正規のメンバーであり、賞金稼ぎにもスポンサーとして出資している模様。山県一義の恋人でもある。閃光が勤めている山高倉商事は山春日グループの傘下にあるため、究極的には閃光の上司ということにもなる。
氷野麻紀(ひの まき)

声:紫苑みやび
真昼に踊る犯罪者で局長に捕まった忍者クラブの部長。純粋な忍者としての技量なら鈴を凌駕する。何でも屋の中では新参のため主に事務を担当しており普段はスーツを着ている。
クリス・クラリティーズ・グリーン 

声:カンザキカナリ
ヨーロッパの小国 “ゴースティアル王国” の王女。傍若無人なことで有名。来日して何でも屋に加わっているが、仕事を派手にやりすぎるきらいがある。
『真昼に踊る犯罪者』ではなく『うえはぁす?お姫様は今日も危険でした?』のヒロイン。なお、グリーンは姓ではなく別称。
エリオット 
ジョブコー ダーポポ プライ オール ハンドグ フェア はずたか タフガ シミュレ 冬の花 ポテト トゥー ハンカ ハシェマ やまふじ インレット ゆずの里 カガシ マンシェ ナサラ ヌクレ 検索モミ カラカス スピー オリジナ 水菜 ビジョン ズーム マウンテ ドレス トカマク ムギセ ベニバ グラソース キング コード オパール オーセン クール ランボ たてじょう ブラゾーン おおみ リンス バロキ スノー ドウェー プレス プロペ いぬまき

声:顔大男
クリスのお目付け役。サングラスを掛けた沈着そうな青年。山県一義とは旧知の仲で、クリスとともに来日して彼を支援している。
『うえはぁす?お姫様は今日も危険でした?』の主人公であり、『真昼に踊る犯罪者』にもゲスト出演している。

2009年01月27日

S-49(セルビア語:С-49;クロアチア語:S-49)

S-49(セルビア語:С-49;クロアチア語:S-49)[1]は、第二次世界大戦後にユーゴスラヴィアのイカルス社で開発されたレシプロ戦闘機である。同国の戦後の航空産業復興に大きく貢献した。

第一次世界大戦後オスマン帝国やオーストリア・ハンガリー帝国等から独立を成し遂げたユーゴスラヴィアは、戦間期において独自の優れた航空産業を築き上げた。イカルスやロゴジャルスキに代表されるユーゴスラヴィアの航空機メーカーは、戦闘機、爆撃機、飛行艇、多目的飛行機、グライダーなど軍民様々な機種の航空機を開発していった。ユーゴスラヴィア王国空軍には、第二次世界大戦直前の時点では、イギリスから輸入したホーカー フューリーやハリケーンMk.I、ドイツから輸入したメッサーシュミットBf 109Eが主力戦闘機として配備されていたが、国内メーカーではフューリーを基にしたイカルスIK-2、ハリケーンを基にしたイカルスIK-3/ロゴジャルスキIK-Zといった戦闘機が開発・配備されていた。

しかしながら、第二次世界大戦初期におけるナチス・ドイツによる侵攻とクロアチア独立国の「独立」によりあらゆる産業は崩壊の憂き目に会い、航空産業もその例外とはならなかった。戦中は、主にクロアチアやスロヴェニアといった地域は枢軸国側に入り、一方イギリスやソ連などにはユーゴスラヴィア人部隊が組織された。特に、イギリス空軍に組織されたユーゴスラヴィアの戦闘機部隊については比較的よく知られており、そこではハリケーンMk.IIやスーパーマリン スピットファイアMk.V/IXなど第一線の機体が運用されていた。一方、クロアチアではBf 109GやフィアットG.50などを運用する戦闘機部隊の他、ユンカースJu 87、ドルニエDo 17などを運用する爆撃機部隊なども組織されていた。
バゲット クス ポイント ヌガー ソリッド 一石二鳥 ミックス ランウエー アヨーチン ブルペン ステーク ドンファン フィル 検索クワ ギガス おじまじ タンポン カレンシー ぼうふう トリグ シャーマン シシャパ キトサン タウリン フィー リーキ シシカバブ バーガー モダンアート セントラ ヒンドゥー フレッ サイゴン 王様検索 フルネュ ナロー ひみつり オーバ カーフェリ サーベイ レジェンド サー油 マイタ かぶらや デミタ ラジエ スター ダンサー テンキー イニング

最初のS-49
ティトーらパルチザンによるユーゴスラヴィアの解放後、同国ではすぐに国内航空産業の復興が始められた。1946年にはザルコヴォに空軍技術大学が創設されたが、これは国の航空技術及び研究の中心機関となった。そこでは、練習機、連絡機、訓練機といった様々な飛行機のプロジェクトが登場した。また、ユーゴスラヴィアの技師たちはIK-3をベースとしたS-49(С-49)戦闘機を設計したが、開戦までに生産されたIK-3の機体はすべて失われていたためこの作業は難航し、立案までに11ヶ月を要した。

戦力化
しかしながら、ユーゴスラヴィアは既製の飛行機やスペアパーツ、飛行機工場のための設備のみならず、ソ連から大きな支援を受けており、ユーゴスラヴィア人はソ連でパイロット、設計者、技師、技手として学び、見習いを勤めていたため、結局初期の案は廃され、新たにソ連のYak-9戦闘機を基にしたS-49A(С-49А)が立案された。それは、機体を金属・木材・布等による混合構造とし、収納式の主輪と尾輪を有するというものであった。既に当時のソ連や他の中・東欧諸国では機体を全金属製とするなど大幅な改設計を施したYak-9Pが配備されていたが、S-49Aは古い前期型のYak-9と部分的にはYak-3をモデルにして設計されていた。機体構造を全金属製としなかったのは、当時ユーゴスラヴィア国内では使用可能な金属が不足していたためである。隣国アルバニア、ハンガリー、ブルガリアなどがより先進的なYak-9Pを装備していたにも拘らずユーゴスラヴィアが国産機に拘ったのは、それだけ国内航空産業の復興と育成を重視していたということの表れであろう。なお、当時のユーゴスラヴィア空軍の主な運用戦闘機は、Bf 109GとYak-1B、Yak-3であった。

1948年に初飛行した試作機は、ユーゴスラヴィア空軍で運用されていたYak-3の搭載エンジンと同じソ連のクリーモフ設計局の開発したVK-105PF2液冷式V型12気筒エンジン(1244 馬力)1 基を装備していた。この新しい飛行機は45 機の政府の発注を受け、1951年までにすべて納入された。量産機には、Yak-1Bに搭載されていたものと同じVK-105PF2より性能の低いVK-105PFエンジン(1180馬力)が搭載された。武装は、同じくソ連製の20 mm機関砲ShVAK 1 門と12.7 mm機銃UBS 2門であった。納入された機体はゼムンの第204IAPと第117IAPに受領されたが、どちらの単位部隊も1957年にこの戦闘機が退役させられるまでにいくつかの飛行場を移動した。

こうして、イカルスS-49A戦闘機はユーゴスラヴィアの最も困難な時期にあって同国の飛行隊の根幹となった。しかしながら、この機体は新しいYak-9やYak-3をベースにしながらユーゴスラヴィア国内の復興事情により機体構造や搭載エンジンなどにスペックダウンを行わざるを得なかった。実質的には、S-49AはそのもととなったYak-9やYak-3よりむしろYak-1の改良型であるといった方がよいものであった。スペックダウンは、この機体を参考に行われたものと考えられる。Yak-1はYak-3などよりは劣る旧式の戦闘機であった。しかし、Yak-3やYak-9より金属使用量の少ない構造であったことは当時のユーゴスラヴィアにとっては有利な特徴であり、機体性能もまずまずのものであったことから、Yak-1はS-49Aの開発に際してはモデルとして最適な機体であったといえる。

S-49Aはその後登場したより優れた機体に代替され、ほぼすべての機体が破棄された。現在では、修復技術の充分ではない1 機のS-49A(機体番号2319/19)がベオグラードの航空博物館に現存しているに過ぎない。

西側への接近
しかしながら、戦後のスターリンとティトーの友好関係は長くは続かなかった。1951年、ソヴィエト飛行家の「最良の友」(スターリンのことである)は、自身のユーゴスラヴィアの学友を世界の帝国主義のスパイとして痛烈に批判した。また、国家間の関係は真の冷戦体制へと向かっていった。

ソ連との断絶は、ユーゴスラヴィアの航空界に痛烈な打撃を与えた。予備部品や航空機の供給が中止され、またソ連の大学やアカデミー、航空学校で学んでいた専門家たちは早急に国外追放された。ティトーは自身の方針を示した。すなわち、これ以来ユーゴスラヴィアは外国に翻弄されることのない体制を構築する不断の努力を続けることとなった。航空産業もその例外ではなく、航空機の完全な国産化が目指されることとなった。

他国からの独立は無論よいことであったが、ユーゴスラヴィアはいまだ戦争による荒廃から立ち直っておらずしばらくは自力での空軍への近代的航空機の供給は不可能であった。そこで、すでに開発されていたS-49Aの発展型の開発に平行して、1951年11月にアメリカ合衆国およびイギリスとの軍事的協力の条約が締結された。まもなく、140 機のモスキートと150 機のF-47サンダーボルトがユーゴスラヴィアへ提供され、その後も西側製の機体が供給された。

ソ連の接近
スターリンの死後、ソ連の新しい首脳部はユーゴスラヴィアとの関係の修復の道を探るようになった。ソ連としては、社会主義圏であるユーゴスラヴィアが西側に取り込まれることを座視するわけにはいかなかったのである。フルシチョフが初めてティトーと会見を行って以降、ユーゴスラヴィアへは再びソ連の航空技術が提供されるようになった。ユーゴスラヴィア圏では、現代でもソ連圏の航空技術が優勢である。

S-49の完成
ソ連から十分な支援が得られるようになったのにも拘らず、ユーゴスラヴィアは国内の航空産業を強化発展させる努力を継続した。すべての航空部品が国内で供給可能となることが目指された。航空設備の拡充のための新たな製造施設が建設された。1949年より、プルヴァ・ペトレトカ市で航空機の脚部と水素装置の組み立てが始められた。ラコヴィツァの工場は大幅に拡充され、航空機用エンジンの製造を行った。バニャ・ルカの技師たちは、無線器と電子機器の製造を行った。1951年には、ボスニア・ヘルツェゴヴィナのモスタルのソコ(Soko)航空機工場での作業が開始された。ソコ航空機工場は、その後航空機分野においてのみならずユーゴスラヴィアの主要な組立企業のひとつとなった。いくつかの工場からなるこの大規模な組立企業においては、冷房、自動車の伝達装置(トランスミッション)、トラクターなど数多くの製品が生産された。ソコに対する航空機発注は、1952年より始められた。それは、新型戦闘機S-49C(С-49Ц)の主翼と尾翼の組み立てであった。

S-49Aの受領から3年後、改良され全金属製となったS-49Cが完成された。この新型機は、戦闘機としてのみならず、戦闘爆撃機、偵察機としても使用されることが予定された。この機体には、フランス製の小型エンジンHS 12A-17が搭載された。これ以外にも、ドイツ製のDB 605を搭載したS-49B(С-49Б)が開発された。しかし、量産化に当たってはS-49Cが選ばれた。その後数年の間に、112 機のS-49Cが生産された。

量産第2シリーズでは、垂直尾翼の前方にドーサル・フィンが追加され、機体の安定性の向上が図られた。

使用中には、武装の改良も行われた。すなわち、主翼下には無誘導ロケット弾HVARの発射装置と20 mm MG 151/20機関砲または12.7 mm M2機銃のコンテナーが据え付けられた。なお、HVARはアメリカ製、MG 151/20はドイツのマウザー(Mauser)製、M2はコルト・ブローニング(Colt Browning)製である。それ以外にも、一部の部隊では2 発の50 kg爆弾を搭載できるよう機体に改修を施した。

ジェット戦闘機の登場により、S-49Cは部隊から押しやられた。早くも1961年には退役し、その稼動期間は10年に満たなかった。現代に残されているのはわずか1 機に過ぎず、その機体(機体番号2400/400、ページ冒頭の写真の機体)はベオグラードの航空博物館に展示されている。

派生型
S-49(С-49):IK-3の発展型。
S-49A(С-49А):Yak-9とYak-3を参考に設計された機体。
S-49B(С-49Б):ダイムラー・ベンツ製のエンジンを搭載した発展型。
S-49C(С-49Ц):イスパノ・スイザ製のエンジンを搭載した発展型。

スペック
S-49A
翼幅:10.30 m
全長:8.43 m
全高:3.20 m
翼面積:16.60 m2
空虚重量:2320 kg
通常離陸重量:2950 kg
発動機:クリーモフ設計局(ОКБ Климова)製VK-105PF(ВК-105ПФ) レシプロエンジン ×1
出力:1180 馬力
最高速度:554 km/h
実用航続距離:690 km
上昇力:1026 m/min
実用飛行上限高度:1000 m
乗員:1 名
武装:20 mm機関砲ShVAK(ШВАК) ×1(弾数120発)、12.7 mm機銃UBS(УБС) ×2(弾数200発)

S-49C
翼幅:10.30 m
全長:9.06 m
全高:3.20 m
翼面積:16.64 2
空虚重量:2818 kg
通常離陸重量:3568 kg
発動機:イスパノ・スイザ(Hispano-Suiza)社製 12Z-11Y レシプロエンジン ×1
出力:1500 馬力
最高速度:628 km/h
実用航続距離:690 km
上昇力:889 m/min
実用飛行上限高度:1000 m
乗員:1 名
武装:20 mm機関砲MG 151/20 ×1、12.7 mm機銃M2、空対地ロケット弾HVAR ×4、または50 kg爆弾(主翼下面の牽引架に搭載) ×2