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2009年04月 アーカイブ

2009年04月04日

鏡岩善四郎

鏡岩 善四郎(かがみいわ ぜんしろう、1902年5月4日 - 1950年8月6日)は、大相撲の力士である。青森県十和田市出身、粂川部屋所属。最高位は大関。本名は佐々木善四郎。現役時代の体格は身長173cm、体重113kg。得意手は右四つ、寄り。

来歴 [編集]
郷里で怪力で知られ、草相撲で鳴らした。1922年1月場所初土俵を踏む。入門が遅かったせいもあって、昇進は遅々としていて、新十両(1927年10月場所)、新入幕(1928年3月場所)は25歳と当時としても速くはなかった。怪力から猛牛というあだ名がついていたが、相撲はゆったりとしていた。そのためか、幕内でもゆったりと牛の歩みのごとく、1932年1月の「春秋園事件」では革新力士団に加わり一時脱退したこともあり、復帰後新小結(1934年5月場所、この場所11戦全敗であった)にはすでに29歳となっていた。

負け越して平幕に陥落した翌1935年1月場所、駒ノ里に敗れただけの10勝1敗で玉錦と並んで優勝同点、そこから一気に上昇気流にのって、1936年1月場所には新関脇、そこで8勝3敗、9勝2敗と続けて、双葉山と並んで新大関を決めた。そのとき34歳になっていた。

1938年からは師匠の死によって二枚鑑札で粂川部屋を継承した。そのころから男女ノ川を居反りの奇手で、また羽黒山を二丁投げで破るなど多彩な技を揮うようにもなった。1939年5月、2場所連続負け越したところで現役を引退、年寄専任となり検査役も務めた。粂川部屋は、彼の時代に何人かの十両力士を出したが、1941年末に、双葉山が立浪部屋から独立して双葉山道場を興したとき、双葉山の人柄に心酔していたことから部屋の力士全員を双葉山に譲って部屋を閉じ、部屋付親方としてその後の人生を送った。この際に弟子全員を集め「いいか、今日から日本一の双葉山がおまえたちの師匠だ」と言ったそうである。この中に後の横綱鏡里がいる。

1939年1月場所11日目、盤石との対戦で、水が入って二番後取り直しとなったが、棄権を申し出たところ、相手の磐石が不戦勝を承諾しなかったので、二人とも不戦敗という珍しい記録を残しているのも、彼の人柄を表している。

二の腕に「花」と一文字、小さい刺青を入れていた。裸を見せる力士に刺青は当然御法度だったが、見逃されていた(見ぬふりをされていた)ようだ。由来について花のごとく潔く散ろうという心意気だとか、かつての愛人の名だとか、人々は想像を巡らしたが、本人は死ぬまで明かさなかった。

主な成績 [編集]
通算成績:239勝183敗4休1預(47場所) 勝率.566
幕内在位:30場所(大関6場所、関脇2場所、小結1場所)
幕内通算成績:174勝153敗4休 勝率.532
大関通算成績:36勝42敗 勝率.462
金星:1個(宮城山)
各段優勝:序ノ口1回(1922年5月場所)、幕下1回(1927年5月場所)

わっしょい ダード オフコ 検索村祭 コーヒー ビザウェー マンボン カイモ ハイス レザーク スパイ ナイジェ ループ ファンベト 私が主役 デイラ ストライカー キシング クアハ ワンシ ハイソ メタフ ツーロン ワイキキ デリカシー メモリ セッショ メタノール マイカ タチバナ ストレート リポート ジャンダ トメーシ オブシデ メダル サージ グリース シーモス ロビイング ドライブ ルレット シェンド ツイード スーサ クロス わっさむ レーキ ニーム トーチャー

2009年04月19日

アメリカ合衆国の経済成長と海外進出

南北戦争の節で触れたように、南北戦争による北軍の勝利は、北部の資本による米国市場の統一を意味した。大陸横断鉄道の開通により、米国市場の統一が進んだ。アンドリュー・カーネギーは鉄鋼の需要を見越し、キーストン鉄橋会社を設立し、事業に成功し鋼鉄王の異名を取り巨万の富を得た。また、ジョン・ロックフェラーは1863年にスタンダード・オイル社を設立し、買収を繰り返し石油事業の独占を進めていった。金融業界では、ジョン・モルガンが父であるジニーアス・モルガンよりJ. S. モルガン&カンパニーの事業を受け継ぎ、JPモルガン・チェースを設立。1892年エジソン・ジェネラルエレクトリック社とトンプソン・ヒューストンエレクトリック社の合併を実現させ、ゼネラル・エレクトリックを、1901年にはカーネギーが持つ製鉄会社を買収し、その他複数の製鉄会社と合わせてUSスチールを設立。金融業界から電気、鉄鋼などの産業への支配を強めていった。彼ら資本家は事業の成功で得た富を慈善事業に使ったことより、泥棒男爵と揶揄された。

金融資本、鉄鋼、石油といった産業資本による独占資本の形成は、放置しておくと市場の競争の阻害要因となってしまった(市場の失敗の発生)。その為、連邦政府は、1890年シャーマン法を制定し独占の阻止を図った。

一方、農民や労働者階級の貧困による不満が高まるようになってきた。サミュエル・ゴンパーズは待遇改善のために、1886年アメリカ労働総同盟を設立した。また、人民党_(アメリカ合衆国)(en)が1892年設立され、中西部や南部の農民の支持を得た。

フロンティアの消滅及び第二次産業革命の進展による重化学工業の発展の結果、米国国民は新たな市場として海外市場を希求した。その結果、歴代のアメリカ大統領は世論に応えるべく、対外的に膨張政策を推進していった。

ウィリアム・マッキンリー大統領はモンロー主義を脱却し、米西戦争及びその後の米比戦争でフィリピン、グアム、プエルトリコを獲得し、ハワイ王国を米西戦争中に併合した。後を襲ったセオドア・ルーズベルトは棍棒外交を推進し、コロンビアからパナマを独立させ、パナマ運河の工事権及び租借権を獲得する一方、日露戦争ではロシアの南下政策に対抗するために日本を支持、ポーツマス条約を周旋した。日露戦争後、日露両国の満州に対する半植民地化(日露協約)を牽制するために、1907年アメリカ海軍による世界一周航海のためグレート・ホワイト・フリートを派遣した。ウィリアム・H・タフトは中南米や東アジアに米国の資本による影響を与えるといったドル外交(en)を推進した。

太平洋地域の分割と自治国の成立
オセアニアは18世紀後半にイギリスのクック(上述)、フランスの航海家ブーガンヴィルが探検していた。

カメハメハ大王(カメハメハ1世)はハワイ諸島を統一して1810年にハワイ王国を建国したが、1893年の革命で共和制となり、1898年、マッキンリー大統領がハワイの米国領への編入を宣言。この日、イオラニ宮殿に掲げられていたハワイ王国国旗が降ろされ、星条旗が揚げられた。続いてフィリピン、グアムがアメリカに併合された。

太平洋地域でフランスが領土としたのは、1853年にフランス領となったニューカレドニアや、1880年に正式に植民地となったタヒチがあった。

ドイツ領としては、1884年に保護領となったビスマルク諸島、1885年のマーシャル諸島、1893年のソロモン諸島北部、1899年にスペインからドイツに売却されたカロリン諸島、マリアナ諸島、パラオ諸島、1885年に植民地となったニューギニア島北東部などがあった。

イギリスは、1884年にパプア・ニューギニア、1888年にボルネオ島北部、1893年にソロモン諸島南部、1900年にトンガを領有し、さらに1906年にニューヘブリデス諸島をフランスとの共同統治領とするなど、太平洋地域の島嶼部はこの時代、列強の争奪の的となった。

オーストラリアは一時イギリスの流刑地とされていたが、1850年に一定の自治権をあたえられ、51年の金鉱発見以降移民が増えた。アボリジニを追いやり、中国人移民を排斥して「白豪主義」をかかげたオーストラリア連邦(Commonwealth of Australia)は、1901年にイギリス帝国内の自治国となった。またニュージーランドでは19世紀に植民したイギリス人と先住民マオリの戦いが続いたが、1893年、世界にさきがけて婦人参政権を実現し、1907年にやはりイギリス帝国の自治国となった。

アフリカの分割とボーア戦争
19世紀前半、ヨーロッパ各国は奴隷貿易を廃止するとともに、「暗黒大陸」とよばれたアフリカへの関心を高め、多くの探検がなされた。アフリカの資源のゆたかさが明らかになると、列強は侵入をくわだて、アメリカ出身の探検家ヘンリー・モートン・スタンリーから情報を得たベルギー王レオポルド2世はコンゴを支配した。一方、1882年にイギリスがウラービー革命を武力で鎮圧してエジプトを占領し、事実上保護領化とした。これらが引き金となって列強によるアフリカ分割が一気に加速した。

ベルギーのコンゴ支配に関して、1884年、ビスマルクの提唱によりベルリン会議がひらかれ、列強は「アフリカの土地先占権」(「無主地」の「有効な占有」)の原則を認めてアフリカ分割の合意がなされた。ここに侵略競争が公然と始まったが、ヨーロッパ諸国はアフリカ分割に際し、部族の相違や住民の文化・社会慣習を無視して境界線を引いたため、古くからの住民相互のきずなが断ち切られる一方で、あらたな対立が生じた。1960年代以降の独立後も植民地時代の境界が新国家の国境となって内戦や紛争の原因になっている。経済的な搾取に加えて、こうした政治的な分断支配に対しアフリカ各地で抵抗をよびおこした。

エジプトの属領だったスーダンでは、ウラービー革命とほぼ同時期に「マフディー」(「救世主」という意味)を名のる指導者ムハンマド・アフマドがあらわれ、外国支配や重税に不満をいだく民衆を結集して立ち上がった。イギリスが軍事介入をこころみたが失敗し、10年以上を費やして、ようやく1898年にマフディー国家を滅ぼしてスーダンを支配下におくことに成功した。しかし、このイスラーム教徒の戦いは、アフリカ各地の部族連合王国の抵抗を勇気づけた。

1879年、アフリカ南部においてズールー王国がイギリスの侵略に抵抗した。イギリスはさらに、セシル・ローズ率いるケープ植民地の北方にボーア人[23]がたてたトランスヴァール共和国、オレンジ自由国に侵入し、ボーア戦争をおこした。イギリスは、激戦のすえ最後の戦いに勝利したものの、その強引な侵略、非人道的とも思える強制収容所の設置や焦土作戦などを行ったため国際世論の批判を浴びた。このことは、のちに従来の「栄光ある孤立」とよばれる非同盟外交を改めて日本との間に軍事同盟を結ぶ契機となった。イギリスは1910年、南アフリカ連邦を成立させ、自治領とした。こうしてイギリスは、カイロとケープタウンをむすぶ地域に勢力をおくアフリカ縦断政策をすすめた。

一方、フランスはセネガルとアルジェリアからサハラ砂漠を東進してインド洋沿岸のジブチに向かうアフリカ横断政策をとり、1881年にはチュニジアを保護国化した。西アフリカのギニアでは、サモリ・トゥーレのひきいる民衆がフランスに抵抗した。また、東進するフランスとエジプトから南進するイギリスとがスーダン南部で遭遇するファショダ事件(後述)が起こっている。

ドイツ帝国はカメルーン、東アフリカ(現在のタンザニア)、西南アフリカ(現在のナミビア)などを領有し、皇帝ヴィルヘルム2世は二度にわたるモロッコ事件(後述)を引き起こした。

こうしたなか、エチオピアは1896年アドワの戦いでイタリア軍をやぶり独立を守った。こののちエチオピアは周辺諸国を分割する側にまわった。

イタリアはこののち、オスマン領だったトリポリ、キレナイカ(ともに現在のリビア)を占領した。

こうして、1876年には大陸全体の1割に満たなかった植民地の占める割合が、1900年には9割におよぶまでとなり、第一次世界大戦前の独立国はエチオピア帝国とリベリア共和国だけになってしまった。

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清朝による近代化の挫折と中国の分割
咸豊帝が若くして死ぬと、権力を掌握したのが西太后だった。西太后は東太后、咸豊帝の弟である恭親王奕訢と提携し、辛酉政変によって反対派の粛清に成功すると、幼い同治帝に代わって政治の実権をにぎり、東太后とともに垂簾聴政を実施した。
恭親王奕訢は清朝の後進性を打破するために、曽国藩や李鴻章、左宗棠といった漢人官僚を登用した。彼らは、西洋の近代技術を取り入れ軍隊の近代化を図るべく、1861年に曽国藩が安慶内軍械所を建設するなど、1860年代には兵器工場を建設し[24]、1880年代になると、繊維工場を建設していった。しかし、これらの工場は「官督商弁」と呼ばれる半官半民の企業であり、その実態は乱脈経営を行う商人を官僚が監督するといったものだった。

同治帝の時代は、ともかくも内政面では諸外国からの圧力が減少し、洋務派の手によって中体西用の路線が採られ、皮相的にではあるが西洋技術を採用して「同治中興」と呼ばれる比較的安定した時代となった。しかし、1875年に同治帝が18歳の若さで死去し、4歳児の光緒帝が即位するころになると、清の辺境では着々と列強が進出を図っていた。東トルキスタンのヤクブ・ベクが反乱を起こして独立を企図すると、1871年にはロシアがそれにつけこんでイリ地方に出兵した。最終的には左宗棠がヤクブ・ベクの乱を鎮圧し、1881年には曽国藩の息子である曽紀沢の努力により、イリ条約を締結してイリ地方の一部をロシアに割譲、新疆全体を対露貿易に開放して事態の鎮静化を図った。また、1884年にはヴェトナム支配をめぐってフランスと衝突、清仏戦争が起こったがそれに敗退し、天津条約でヴェトナムに対する宗主権を喪失した。

日本は台湾出兵以後、琉球王国を日本領として編入することに成功し、また、江華島事件以降、甲申事変などにより朝鮮半島への進出を図っていった。1894年東学党の乱を契機に日清戦争が勃発すると、日本軍は連戦連勝、李鴻章が建設した北洋艦隊も破り、最終的には1895年下関条約が締結されることとなり、ここに東アジアの伝統的国際秩序である冊封体制は終焉を迎えた。日清戦争敗北後、欧米列強は清朝への侵略を進めていき、半ば植民地の状態になった。列強諸国は借款を通じて、鉄道敷設権・鉱山採掘権などの各種利権を獲得し、各地に租借地を獲得していった。なお、このような中国分割の状況に対し、米西戦争後アジアへの関心を急速に深めたアメリカのジョン・ヘイ国務長官は1898年「門戸開放宣言」を発し、「門戸開放」と「機会均等」をかかげ、翌年には「領土保全」を提唱して、中国分割に加わった。
1898年、光緒帝は康有為、梁啓超を登用し日本の明治維新を模範とする変法自強運動を行ったが、西太后の反発により失敗(百日維新)に終わり、康と梁は日本に亡命した(戊戌政変)。

こうしたなか、列強の侵略が急激に集中した華北では、窮乏化した民衆の矛先がキリスト教会や鉄道などに向けられ、とくに山東省を中心にひろまっていた義和団が「扶清滅洋」を唱えて排外運動をおこし、1900年に北京にはいって外国の公使館を包囲した。清朝はこれを支持して、各国に宣戦布告した。列国は、日本とロシアを主力とするイギリス、アメリカ、フランス、ドイツ、オーストリア、イタリアの8か国連合軍を派遣して北京を占領し、公使館の包囲を解いて義和団と清軍をやぶった(北清事変)。列強は翌年、清朝と北京議定書(辛丑条約)をむすび、これにより清は列国に賠償金を支払い、外国軍隊の北京駐留を認めさせられた。1937年、日本の北京駐留軍が何者かによって攻撃を受けたことから廬溝橋事件が起こった。

2009年04月23日

永井荷風

永井 荷風(ながい かふう、1879年(明治12年)12月3日 - 1959年(昭和34年)4月30日)は、日本の小説家である。耽美的な作風で明治から昭和にかけて活躍した。本名は永井 壯吉(ながい そうきち)。号は断腸亭主人、金阜山人。

1879年 - 東京市小石川区金富町に愛知県士族[1]で内務省衛生局事務取扱の永井久一郎・つね夫妻の長男として生まれた。
1883年2月 - 弟貞二郎出生 しばらく荷風は下谷竹町の鷲津家に預けられ祖母に育てられる。
1884年 - 鷲津家から東京女子師範学校附属幼稚園に通う。
1886年 - 小石川の実家に戻り小石川小日向の黒田小学校初等科に入学。
1887年11月 - 弟威三郎出生
1889年4月 - 黒田小学校尋常科第4学年を卒業。7月、竹早町の東京府尋常師範学校附属小学校高等科に入学。
1891年9月 - 神田一ツ橋の高等師範学校附属学校尋常中学校第2学年に編入学。
1897年3月 - 中学校第5学年を卒業。 7月、第一高等学校を受験するが不合格。9月から11月まで両親、弟たちと一緒に上海で生活するが、帰国して神田一ツ橋の高等商業学校(現一橋大学)附属外国語学校清語科に臨時入学する。
1898年9月 - 「簾の月」という作品を携え広津柳浪に入門。
1899年1月 - 落語家6代目朝寝坊むらくの弟子になり三遊亭夢之助の名で席亭に出入りする。しかし父の反対で落語家修行を断念する。12月外国語学校を第2学年のまま除籍となる。
1900年 - 歌舞伎劇作者福地桜痴の門下となった。
1901年4月 - 日出国新聞に転じた桜痴とともに入社、雑誌記者になる。9月、同社を解雇。フランス語の初歩を学ぶ。年末ゾラの作を読み感動する。
1902年9月 - 『地獄の花』を刊行、ゾライズムの作風を深めた。
1902年9月 - 父の勧めで渡米
1905年6月 - ニューヨークに出、翌月からワシントンの日本公使館で働く。12月、横浜正金銀行ニューヨーク支店に職を得る。
1907年 - 正金銀行リヨン支店に転勤。
1908年6月 - 銀行をやめた後、2か月ほどパリに遊ぶ。7月、神戸に到着。8月、『あめりか物語』を発表。
1909年3月 - 『ふらんす物語』刊行直前に発禁となる。
1910年2月 - 慶應義塾大学文学科刷新に際し、同学科顧問・森鴎外の推薦により、教授に就任。5月、雑誌『三田文学』を創刊、主宰した
1911年11月 - 「谷崎潤一郎氏の作品」を『三田文学』に発表。
1912年9月 - 材木商斎藤政吉の次女ヨネと結婚。
1916年2月 - 慶應義塾を辞め、『三田文学』から手をひくこととする。
1917年9月 - 日記の執筆を再開(『断腸亭日乗』の始まり)
1944年3月 - 親戚である大島一雄(杵屋五叟)の次男永光を養子として入籍。
1945年3月 - 東京大空襲で偏奇館消失。6月、明石を経て岡山へと疎開。8月、岡山県勝山町に疎開中の谷崎潤一郎を訪問したのち岡山市郊外の避難先に帰り、そこで終戦を知る。
1952年11月 - 文化勲章受章。
1954年1月 - 日本芸術院会員に選ばれる。
1959年 - 79歳で没。死因は胃潰瘍。
東京都豊島区の雑司ヶ谷霊園に眠る。ほかに、故人の遺志があった南千住の浄閑寺に、知友有志が建立した詩碑と筆塚がある。

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荷風の住まい
1879年12月 - 東京府東京市小石川区金富町(現・文京区春日二丁目)に生まれる
(生家の思い出をもとに小説『狐』を書く)
1890年 - 父が文部大臣芳川顕正の秘書官となり麹町区(現・千代田区)永田町の官舎に移る
1891年 - 一家は小石川の本邸に帰る
1893年11月 - 父、金富町の邸宅を売却し、一家は麹町区飯田町の黐(もち)ノ木坂中途の借家に移転
1894年10月 - 麹町区一番町の借家に移転
1902年 - 家族とともに東京市牛込区大久保余丁町(現・新宿区余丁町)に転居
1903年-1908年 アメリカ、フランス滞在
1918年12月 - 東京市京橋区築地(現・中央区築地)に転居(断腸亭)
1920年 東京市麻布区市兵衛町(現・東京都港区六本木)に転居(偏奇館)
偏奇館(ペンキ塗りの木造洋館=ペンキ館であったことにちなむ名称)は、空襲で焼失した。跡地は六本木一丁目の再開発(泉ガーデンタワー)により地形さえ留めていない。
1945年3月 - 東京大空襲により偏奇館消失 6月 - 岡山県に疎開
1946年1月 - 千葉県市川市菅野の杵屋五叟の転居先に寄寓。
1947年1月 - 千葉県市川市菅野の小西茂也方に寄寓
1948年12月 - 市川市菅野に売家を求めて転居。
1957年3月 - 市川市八幡町に転居。

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